Guoぱんだの家には最近猫のお客様がたくさんきます。
昨日の夕方、今までその中で全く懐かなかった一匹、通称グレコが足にまとわりついて離れないのです。
人前で鳴くこともなかったのですが、昨日はニャーニャーと鳴きながらベッタリくっつくグレコ。
グレコとお友だちになれたかな?とちょっと嬉しいGuoぱんだです。
さて、昨日のつづき。
言葉というものはなかなか難しいもので、人それぞれ捉え方が違うことがあります。
言っていることとやっていることが違うように見えるとか、言われたことをやってみたけれど実際になんだかうまくいかないとか、何回言ってもわかってもらえないというのも、その捉え方の違いかもしれません。
実際Guoぱんだは言われた通りに実行していたらと数年後その人に「あなたはなんでそんな保育をしているのだ。おかしい」と指摘されたことがあります。
…その人のおかしなところは他の理由も考えられますが、強制的に学ばされたことで360度、保育に対する考え方を変えさせられました。
でもGuoぱんだはこの一件は無駄だとは思っていませんし、ある意味自分の保育のなんたるかが確立された理由の一つでもあり、こんな反面教師的なところからも学びは生まれるものです。
今は“見て学ぶ”時代ではないという人がいました(上記の反面教師の方ですね)。
見て学ぶことが出来ない時代だから言ってわかるようにする時代であると…
見て学ぶことが出来ない時代だから前もってわかるように伝えなければいけないのだと…
本当にそうなのでしょうか?
Guoぱんだは一人前の保育者を早く育てたいばかりに、言葉で指示しすぎて、見て学ぶ時間や聞いて考える時間、自分の力で成長していくための時間を奪ってしまっているのではないかと思うのです。
また見て学ぶ力がないのではなく、見て学ぶべき人がいないことも問題なのではないかと思うのです。
子どもたちの発達には経験の積み重ねが大切と言われますが、それと同様保育者の成長にも経験の積み重ねは必要なのではないでしょうか。
よいことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、悩んで自分なりに考えたり、笑ったり、遊んだり…、保育の中で保育者自身がたくさんの経験をしていく時間は今後の保育を展開していく上でかけがえのない時間になるはずです。
一見無駄にも思えるこの時間を通して、びっくりするくらい成長する保育者はいるはずです。
またステキな保育ができる保育者が側にいれば、その背中をみて成長する保育者はたくさんいるはずです。
子どもの成長を信じて待つと言います。
保育者の成長も信じて待つことができる時間がほしいなと感じてなりません。