以前、こんな記事を綴りました。
これはこのX保育士が、野菜の苗の育て方などを、なーーーんにも知らないのに、プライドが高いので、知ったかぶりをして、出来もしないのに余分なことをした結末。
知ったかぶりをするから、こんな悲劇があるのです。
そして、X保育士の根底にはこんな意識があります。
「植物なんて、勝手に大きくなる〜💕楽〜〜ウフッ」
聖書の中の一節…
『わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。(コリント人への第一の手紙3章1~9節)』
そうです。
…成長(生長)の力を与えてくださっているのは神様ですよ。
でも…X保育士のような知ったかぶり保育士とか、なんちゃって保育士は、この聖書の一節を都合よくこう考えます。
「成長(生長)させてくれるのは神様だから、何もしなくていい」
…あり得ません。
種まきをしただけでその後放置していて、綺麗な花が咲く訳がないのです。
苗を植えただけでお世話をしないで、美味しい野菜が出来る訳がないのです。
成長(生長)の力は神様の与えてくれたものですが、神様の手伝いをして、水やりをしたり、日々お世話をして、愛情を注いで、その力をより活かすのは、神様の子どもである人の力があってこそということは前提にあるのではないでしょうか。
「神様ってすごいね〜〜!何もしなくても綺麗な花が咲いて、美味しい野菜が食べられたよね〜」
…絶句。
こんな考えを子どもに言葉として伝えることも罪ですし、子どもに教えるんじゃない💢と、こんなことを平気で言えてしまう保育者に嫌気がさします。
どこからそんな偏った思いが出てくるのか!?…
もしも、あなたが蒔いた種や、植えた苗に、何もしていないのに綺麗な花が咲き、美味しい野菜が食べられたのだとしたら、それは神様の力を思いに代えて、コツコツと水をやり、お世話をし、愛情を注いだ人がいるからなのです。これは植物だけではなく人間の成長にも言えること。
神様への感謝と共に、その働きに感謝できないのであれば、子どもの心は育ちませんし、何より神様は残念に思うのではないかと思うのです。
長い、取って付けたようなわざとらしい説明や言葉は要りません。
『お世話してくれた人がいたんだね』『ありがとうだね』…たった一言二言添えるだけでいいのです。
今回紹介の聖書の中の一節にあるように、凡人には時として受け入れがたい言葉で聖句が綴られていることがあり、クリスチャンではないGuoぱんだは、こういうところがどうしても精神として、その全てを受け入れられない理由の一つなのかもしれません。
でも、分かりにくい言葉の裏に隠された言葉の意味や隠された思いを読み解くことは、必要なのでは?と思うGuoぱんだです。