新しい一週間がはじまりました。
一週間のはじまりは清々しくあけましたか?
今日もジムでいそいそと身体を動かすGuoぱんだです。
今は“同期”の職員もたくさんいる時代となっています。
そんな同期が多い若い職員が相談にくるとこんなアドバイスをする保育者Oさんがいました。
「同期がたくさんいるんだからいろいろ相談もできるし、もっとたくさん関わりをもって保育の情報交換すればいいんじゃんない?」と。
あまり同期で話をしていないようだし、仲良くなればもっと仕事が楽しくなるのではないかという配慮のようでした。
不思議なことに、一見ポジティブなこのアドバイスですが、「そうですね」と明るい顔になり解決に至る職員はほとんどみかけませんでした。
Guoぱんだの時代はめったに職員が採用されないわけですから、当然Guoぱんだには“同期”はいません。
Guoぱんだは良くも悪くもこの“同期”がいないということがよかったと思っている人間です。
6、7年も気楽な下積み生活を楽しむことになった原因の一つでもあります。
もしも比べられる存在がいたとしたら、常に自分をよく見せよう一生懸命になっていたのかもしれません。
子どもの発達に個人差があるように、保育者の成長にも個人差はあるはずです。
あの子はできてこの子はできないというような感覚で個々の成長を評価してはいけないのです。
同期がいることをよいこととして捉えられるようにするためには、周りの環境も大きな影響を及ぼす一因となるように感じます。
Guoぱんだの元職場は、Guoぱんだが職場異動、職場異動の末、元に戻ってみるとそれとは真逆の職場になっていました。
毎日が人の傷つけ合い。なんだかな〜と悲しい気持ちになります。
現にOさんもうわさ話の大好きな保育者でした。
そんな状況の中で情報交換も何もできるはずはありません。
保育とは、保育者自身をよく見せる場ではないとGuoぱんだは思います。
評価ばかり気にして子どもたちが置き去りになっている保育を見ることも多いです。
主体はあくまでも子どもです。
でもそこで見える表面だけを比べられてしまうと、自分を評価してもらおうと必死になってしまいませんか?
自分は自分と思うGuoぱんだでもそんな状況下においては評価を気にしたかもしれません。
子どもの成長を信じて待つのと同じように、保育者にも成長も信じて待つ時間が必要です。
信じて待つことで、びっくりするくらい成長する保育士さんはいるはずです。
Guoぱんだにとっては、気楽な保育の下積み生活がこの信じて待っていただいた時間だったのでしょう。
Guoぱんだが仕事を一旦辞めることにした理由の一つは実はここにあります。
人を信じることは大事なことです。
人を傷つける行為は絶対にしてはいけないことです。
子どもたちにはそういう大切なことを、きちんと伝えてあげたいです。