最近、ジムで身体を動かす時の水分補給は新聞や雑誌などで宣伝しているのをよく見かける某生姜エキスを薄めたもの。
そのせいか、身体を動かすと尋常ではない汗が出るGuoぱんだです。
水素水で薄めたのもよかったのかな?と思ったり…
でも、考えてみれば常に大量の汗が出るGuoぱんだですので、生姜エキスの効果なのか水素水の影響なのかどうかははっきりとはわかりません。
単に湿度が高いからかもしれないし…
月末予約の人間ドックの結果で判断してみたいと思います。
Guoぱんだは上司から「保育者はとなりのおばちゃんではいけない」と言われて過ごしてきました。
要するに、単に子どもと関わるのではなく、保育士という保育の専門家としてふさわしく意味や目的をもって子どもに関わるように…ということであります。
となりのおばちゃんという表現方法が適切であるとは思えませんが、保育士は保育の専門家ですから、言いたいことには納得します。
が、その上司も含め保育者??と思うような言葉を発したり、保育者中心の独りよがりな保育をする保育者の実態をみてしまうとその求める専門性が何なのかわからなくなります。
子どもたちに条件付きで愛を注いでいる保育者より、となりの○○の方が子どもたちに対して純粋な愛を注いでくれているのではないかと思うことも多いのです。
保育の技術やリーダー資質があっても、子どもやスタッフを物としてしか見ず、自分の言うがままに動かすことに全力を注いだり、自分の評価向上のためだけに保育をする人は保育の専門家としていかがなものかとGuoぱんだは感じます。
そんな意識の人がいたとしたら、どんなに技術がすばらしくても保育者として尊敬はできないですし、少なくともGuoぱんだはこういう保育者にはなりたくありません。
保育専門性とは何ですか?
保育の専門家というのは単に保育の技術が長けているということなのでしょうか?
子どもを静かにさせる技術を習得することが優れた保育者であり、保育の専門性ですか?
自分のクラスの子どもたちはいい子だから保育者が優秀であり、それは保育の専門性が成せる業ですか?
もしそれが保育の専門家としてのあり方であり、保育の専門性として求められるのであるならば、Guoぱんだは子どものことを第一に考えられるとなりのおばちゃん、となりのお姉さんでありたいと思います。
Guoぱんだは子どもたちと共に過ごし、常に子どもの姿を見つめ、把握して、その成長のために働きかけをする保育者でありたいです。
そのためには、外見や見た目を見繕ったり難しいことをばかりを考えるのではなく、保育の土台をしっかり固める必要性を感じます。