以前の職場で、ひなまつりのお楽しみの “ひなあられ入れ” を、保育者からのプレゼントとして作って、ひなあられを入れて子どもたちに提供していました。始めたのはGuoぱんだがひなまつりの担当の時でしたが、その後も恒例となっていました。
桃の節句に合うような色合いを考えた紙で作られ、ちょっとばかり小綺麗な飾りのしてあるひなあられ入れを、あられを食べ終わった後に大事に折りたたんで持ち帰る子もいて、ほっこりしたものです。
年月が経ち、Guoぱんだは職場異動を重ね、また元の職場に戻りました。
そして、まだこのひなあられ入れが残っていることを知りました。
全く違った形で…
そもそも始めたきっかけは、『子どもたちにお楽しみのプレゼントとして保育者がひなあられ入れを作って提供していた』のですが、いつしか、『年長児が製作として大量生産する園のお荷物的な活動』になっていました。
青や紫、終いには黒い容れ物が登場し、およそ桃の節句のイメージはなく、作ればいいんでしょ?というやっつけ容器をみてビックリ!お世辞にも漆塗りの高価なものには見えません…シワだらけで汚ないのです😢
面倒だけれど作らなくてはならない “あられを入れる容器” であり、保育士が手をかけるのも面倒だから子どもたちに作らせれば楽だよね?的な立場になっていたのです。
意味もなくただ作るのならば作らなくてもいいし、本来の意味が全くない中であられ入れだけが残っているのはとても悲しいことでもありました。
お皿を借りて容器にすれば、保育士の面倒やイライラもなくなり、楽にひなあられを分けられるのですから…
始めた時は、桃の節句をみんなでお祝いする中で、子どもたちが喜ぶ顔をみたいという、ただ一心で取り入れていましたが、そのような気持ちは何処へやら…
子どものことを考えて行事を行おうとする人がいなくなっていることもショックでしたが、考えもなく、ただその時だけを要領よく過ごしていくだけの人たちの中では、伝統や思いが繋がっていくことはないのだと、改めて感じたものでした。
思いを繋ぐことは簡単はことではありません。
しかし、繋いでいかなければいずれ消えてしまうことも今の世にはたくさんあるはずです。
全ての時に全てを…とは言いませんが、時に立ち止まり、自分が今ここでしていることの意味や、大切な何かを振り返ってみることも必要なのではないでしょうか。
Guoぱんだは、そうありたいと考えています。
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