5-297 それぞれに感想を持ってはいけないのでしょうか?
Guoぱんだです。
小学生の頃は本を読むことが大好きでした。
自分なりに想像しながら読むことが楽しいし、そこから感じたことを自分なりに置き換えることで、大なり小なり学ぶことができると思っていました。
しかし、中学、高校と成長するにつれ、いつしか本を読むことが嫌いになっていました。
今や大嫌い!!
職場で勉強会のため、参考にする本を「ここまで読んできて下さい」と言われてもまず読みません。
でも話し合いに参加するには、本を読まないと参加できないので、一番発言しやすそうな部分を一点読みして、さも全部読んだかのように発言するようにしていました。
なんで本を読むことが嫌いになったのか…
「これはこう読み解きます!!」と自信たっぷりに参考書通りに授業する国語教師のなんと多いことか。
自分なりの感想を言うと「ちょっと違うねぇ」とか、アンケートに記入して提出すると「こんなことを書いている生徒もいますが意味が違いますよ」とか、自分の感じたことや感想をバッサリ切り捨てられるのです。
『自分の感じたことを何故否定されなきゃいけないの?』
これが本を読むこと、国語の授業が嫌いになるきっかけとなっていきました。
「この詩はこう読み解きます」
『…お前は石川啄木なのか?会ったことあるのか?師事を仰いだのか?はあ?』
「この情景はこうです」
『お前に言われんでも最後まで読めばわかるよね?最後まで読ませろよ!!』
「松尾芭蕉はこのように思っています」
『松尾芭蕉の友達ですか?本当にそう思っていたかなんて本人にしかわからなくないですかぁ?』
これはこう、あれはこうで、こうではいけない!!
なんでそこまで一つの意見に絞るのか?
国語の授業ってそんなんでしたっけ???
先生が解説書通りことを、自分のことのように説明するのがなんとも滑稽で嫌いでアホらしくて、授業中は心の中で悪態をついていました。
解説書の説明をしてほしいわけじゃないのですよ。
それならプリントの一枚もらえれば良いのですし…
自分の意見を持てないならば本を読んでも仕方ないので、本を読むことはしなくなりました。
人それぞれ、読み方に差があるのだから考え方も違って当然。
同じ考えの人間を作って何が楽しいのか…
自分の考えが出せないなら、読書感想文の意味もないんじゃないか?
国語の授業がきらい言う方が時々いますが、Guoぱんだと同じような方もいるのかもしれないですね。
そうそう、国語の授業の意味ってこんなんなんですよ!!と、チコちゃんで取り上げられていましたね。
こんな授業が国語の授業だっだら、国語は嫌いにならなかったし、本や詩や俳句など、それぞれ別個で楽しめたのかもしれません。