この世の中には、様々なことがある。
それぞれに納得することもあれば、自分と合わないなと思うこともある。
もちろんGuoぱんだも例外ではなく、うなづけることもあれば、これは自分とは考え方が違う、やり方が違うなと思うこともある。
そんな時は相手や対象物に対して疑問も抱くし、間違っているんじゃない?とけして良い気分はしないものである。
まぁ、人にはそれぞれに思いはあるものなので、生活していく以上仕方のないことでもあり、お互い様であるとも思っている。
これが話し合いの場であったりすると、ここから意見交換がされたり、改善点が見いだされたりと、次に進む何かを見つけていくことが必要となる訳だ。
しかし、見ていて、聞いていて、関わっていて、大変気分の悪くなる時がある。
「これはおかしいと思う。みんな言っている💢」と言うものの、肝心の何かがない人の主張。
そう…『ではどうすれば改善がされていくと私は思うのか』という、自らが考える改善点がなく主張された時である。
このような人に「ではあなたはどうしたいの?」と問うと、大抵は黙ってしまったり、ひどい人は「それを考えるのは自分ではない」と、人任せにするのである。
こう言う物事の主張の仕方をGuoぱんだは
“文句を言っているだけ”
“ケチをつけているだけ”
で、その人のことは
“ずるい人”
であると思っている。
そんなことを言われても、改善点が思いつかない時だってあるじゃない?と思うかもしれない。
もちろんGuoぱんだも全てに自分なりの改善点を見出せる訳でもない。
それならそれなりの主張の仕方があるのではないか。
もしも本当に物事を良くしたいという主張であるのならば、「よい改善点が見出せず、自分の意見もまとまってはいないが、皆さんの意見を聞いて、考えをまとめたい」など、何とでも言い方や話し合いの雰囲気を作ることはできるはずなのだ。
ある事についてもっている考えを伝えようとする “意見” と、苦情、不服を述べるだけの “文句” は違う。
実際、意見と文句の区別がつかない低レベルな集団での低レベルな話し合いもたくさん体験している。
そこまで言うならあなたはどうしたいのだ?と問いかけても、解決の全く見えないケチのつけ合いの話し合い…
自分は、単なる文句ではなく、自分なりの改善点を持った上での意見や主張を伝えていきたいと思う。