昨日のつづきです。
Guoぱんだ、久しぶりに先生と呼ばれる人たちをディスります。
記事を綴りながら、ここまでこの件について根に持っている自分にもビックリしました。
以後を読まれる方は、その点にご理解をお願いします。
是非昨日の記事から見てください ↓ ↓ ↓ 話がつながらないので…
人はやりたくても、何故かどうしてもできないことはあります。
自分を振り返ってみてもきっとあるはずです。
それが顕著に目立つか目立たないかは、それが他人の目に触れる環境で行われるのかそうではないかの違いです。(目に見えるか見えないかの違い…目に見えると以下の記事のようになりますし、目に見えないとまた違った悩みがあるのかなと思います)
実際にはGuoぱんだはある程度は泳ぎますし、潜れたり、飛び込みに至っては大好きなのですが、長い時間、地に足をついて息ができないことに恐怖を感じます。
50メートルプール、途中で立たなくても泳げるのに、あと5メートルくらいになると急に不安になって、恐怖を解消するために立ちます。
すると先生は「なんで最後まで泳がないのか」と怒ります。
「ふざけるな!!」と怒鳴ります。
それをみて泳ぐのが好きな人たちは笑います。
何故怒られなければならないのか、理解できません。
ふざけてはおりません。
怖いのですから、ふざけた時点で死にます。
ですからどんなに怒られようと怒鳴られようと先生の指示には従いません。
従う必要も感じませんでした。
できないものはできないのですから…
できなくて何が悪い?です。
こちらから言わせてもらえれば、大人にもなって、ましてや先生のくせにそんなこともわからないのか?です。
笑う人たちも理解できません。
あなたたちはできないことが何もないのですか?
笑うことを許す先生(大人)もありえません。
Guoぱんだであれば、人を嘲笑う子を絶対に許しません。
子どもたちが勝手に笑うのではありません。
先生(大人)の態度が子どもをそうさせるのです。いじめはある意味先生(大人)が創り出していると思っています。自分の働きかけがはたして子どもたちのためになっているのか??
経験させることがいけないと言っているのではありません。
でも、考えてみてください。
全ての人が同じことをして、同じことのスペシャリストになる訳ではありません。
経験の中からスペシャリストになる人たちが出てくるのです。
万民に同じことをやらせて自分が満足するというような低レベルな指導はいりません。
低レベルな指導は、子どもの心に傷を与えます。Guoぱんだの場合、これがあって今があるのでむしろ感謝していますが…
その人その人に合ったものを見つけられるように、また働きかけていくのが先生(保育者も含む)と呼ばれるものの役割の一つでもあります。
自分は前者なのか後者なのか、一度立ち止まってみることも必要ではないでしょうか?