70 原点を探る②〜Guoぱんだとジム〜
人間ドック以降、何だか身体中痛いGuoぱんだです。
全身病気なのではないか…と思ってしまいます。
病は気から…といいますがまさに実感…本当に気分で病になりそうです。
昨日のつづきですので、今回の話題はGuoぱんだの保育士になった理由…
かなり社会に対する反発やらコンプレックスやらが含まれていますので、言葉がいつも以上に挑戦的かなと思います。
読まれる方はその辺ご理解お願いしますm(._.)m
疑問だらけのGuoぱんだが考えたのが“体育の先生になって体育で辛い目にあっている子どもたちを助け出そう”というもの。
でも…現実を考えてみましょう。
○運動場をマラソン中サッカーボールが3回同じところに転がってきて3回ともそれにつまづくGuoぱんだ
○プールで足がつって溺れているのに誰にも気づいてもらえず、そのまま足のつりがなおり何事もなかったように生還したことのあるGuoぱんだ
○Guoぱんだが小走りしている速度は他の人の歩く速度より遅い
…どう考えても体育教師になるだけの運動神経のかけらもありません。
そしてGuoぱんだが次に考えたのが、“体育だけではなく全てのことにおいて努力を認められないような悲しい大人がはびこるこの世知辛い世の中に力強く生き抜く子どもを育てる”幼児教育をしようと考えたのです。
この後、Guoぱんだの体育授業における疑問は短大の体育の先生にぶつけることになります。
その先生が悪いわけでもなく、また体育の先生に対してよく言ったと思いますが、要約すると「今の教育は間違っている。特に体育の先生のあり方には疑問を持つ。私はそんな結果しかみない教育では人は育たないと思う。もっと過程やその人なりの努力も認めるべきだ」というような内容を口頭テストで伝えました。
意外にも先生の反応は「君のいうことはもっともだ。間違っていない。そういうことを考えなくてはいけないと思います」という回答。
今まで体育の先生とはわかりあえることはないと思っていたGuoぱんだですから、体育の先生に思いを認めてもらえたのは自分の思いに自信をもつことのできるきっかけでもあり、更に自分が大切にしたいと思う気持ちに向かえるきっかけであったように思います。
…Guoぱんだは自分なりに頑張っている部分をわかってもらえないという言いようのない大人への不信感を体育の授業で感じましたが、同じような思いを他のことで感じてきた人は他にもたくさんいると思います。
さて、先日高校時代の友人に会いました。
彼女も体育が苦手で、当時そんな仲間意識もあり一緒に過ごすようになったんじゃない?と思い出話をしました。
そんな中でGuoぱんだが「今、ジムに行って身体を動かしてて…」と話をすると、友だちは「は?・・・」と絶句。
そして「うそでしょ?Guoぱんだ、運動嫌いだったじゃん。ショックだよ~」といいました。
確かに、その当時の“体育の授業”を思い出すと、自分のできないこと再発見の旅でもみているようなものでしたし、公開処刑かい?と思うような部分もあり、身体を動かすこと自体が嫌でした。
でも、ジムにいって思うのは、ジムでは誰かと比べられることはないし、結果は自分だけのもの、スタジオで踊って動きを間違えたとしてもそれを指摘されたり責められるわけでもありません。
自分のペースで、自分の思いで、自分のやりたいことを選んで、そこに結果もついてくればまたやる気もあがってきて…
そこが教育現場との違いなのかもしれませんが…
人には運動に限らず得手不得手なものはあります。
努力しても、なかなか他人から見たらよい結果に結びついていないこともたくさんあります。
結果は他人から見えるものだけではなく、自分の中での設定した到達点の結果もあります。
Aさんには「こんな簡単なこと」も、Bさんには簡単ではないかもしれません。
だからこそ、(結果がついてくれば更に嬉しいものですが)その人その人が感じる結果に至る過程や努力をもっと知ることが必要となってくるのではないでしょうか。
またそれがGuoぱんだの思う保育の原点であり、子どもたちに伝えたい思いであり、人として大切にしたい気持ちです。