Guoぱんだです。
本日は2016.5.18の記事より、保育士さんにメッセージを…
Guoぱんだは以前の職場の上司から「保育者はとなりのおばちゃんではいけない」としつこく言われて過ごしてきました。
要するに、単に子どもと関わるのではなく、保育士という保育の専門家としてふさわしく意味や目的をもって子どもに関わるように…ということであります。
『となりのおばちゃん』という表現方法が適切であるとは思えませんが、保育士は保育の専門家ですから、言いたいことには納得します。
が、その上司も含め、保育者??と思うような言葉を発したり、保育者中心の独りよがりな保育をする保育者の実態をみてしまうとその求める専門性が何なのかわからなくなります。
子どもたちに条件付きで愛を注いでいる保育者より、となりの○○の方が子どもたちに対して純粋な愛を注いでくれているのではないかと思うことも多いのです。
保育の技術やリーダー資質があっても、子どもやスタッフを物としてしか見ず、自分の言うがままに動かすことに全力を注いだり、自分の評価向上のためだけに保育をする人は保育の専門家としていかがなものかとGuoぱんだは感じます。(そういう方は保育の技術もリーダー資質も自己中心的なまがい物であるのはもちろんです)
そんな意識の人がいたとしたら、どんなに技術がすばらしくても保育者として尊敬はできないですし、少なくともGuoぱんだはこういう保育者にはなりたくありません。
保育専門性とは何ですか?
保育の専門家というのは単に保育の技術が長けているということなのでしょうか?
子どもを静かにさせる技術を習得することが優れた保育者であり、保育の専門性ですか?
自分のクラスの子どもたちはいい子だから保育者が優秀であり、それは保育の専門性が成せる業ですか?
もしそれが保育の専門家としてのあり方であり、保育の専門性として求められるのであるならば、Guoぱんだは子どものことを第一に考えられるとなりのおばちゃん、となりのお姉さんでありたいと思います。
Guoぱんだは子どもたちと共に過ごし、常に子どもの姿を見つめ、把握して、その成長のために働きかけをする保育者でありたいです。
そのためには、外見や見た目を見繕ったり難しいことをばかりを考えるのではなく、保育の土台をしっかり固める必要性を感じます。